【住所】愛知県清須市朝日城屋敷1-1
【アクセス】
〔車〕清洲東IC.春日出口.清須出口 それぞれから5分
〔電車〕JR東海道本線「清洲駅」、名鉄本線「新清洲駅」からそれぞれ徒歩15分
【駐車場】無料 普通車113台
【営業時間】9時00分~17時00分
【休業日】月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日) 年末
【入館料】大人300円 小、中学生150円
清洲城は1405年(1375年の説あり)に、室町時代前期の守護大名だった斯波義重(しばよししげ)により築城
その後1476年に織田敏定に攻められ焼失してしまったが1478年に守護所が清須に移転
これ以降清洲城は尾張の中心地として織田家、豊臣家、徳川家が城主となっていった
【清洲会議】
1582年本能寺の変で織田信長が亡くなったことにより 家臣であった 羽柴秀吉(豊臣秀吉)・柴田勝家・丹波長秀・池田恒興 等が集まり織田家の跡継ぎと 残された領地の配分をを決める会議が清洲城で行われた
織田信長の長男である信忠は本能寺の変により死亡しており、 次男の信雄は優秀ではなかったため、 柴田勝家が三男の信孝を推薦し羽柴秀吉(豊臣秀吉)が長男信忠の子供で当時3歳だった山法師を後継者として 推薦した
結果的に丹波長秀と池田恒興が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に着き織田信長の孫である山法師が後継者に、次男の信雄と三男の信孝が後見人ななることで決まった
この後継者争いが 後の賤ヶ岳の戦いと小牧長久手の戦いの引き金になった
【清洲越し】
1609年徳川家康の指示で廃城となり、城の資材は名古屋城築城のために利用され、城下町ごと移動した