尾張北部中心に行われ、戦い自体は徳川家康が勝利したがその後政権の実権を握ったのは 政治的戦力により羽柴秀吉であった
徳川家康は羽柴秀吉を破った唯一の男ということでその後開かれるの徳川幕府が強くなる一因となった
〖原因〗
織田信長が死亡したため後継者を選ぶいわゆる清須会議が1582年清洲城で行われた
そこで羽柴秀吉が 実権を握るために選んだ織田信長の孫である山法師(3歳)が後継者として 決まった
織田信長の次男信雄と三男信孝は山法師の後見人となった
ちなみに長男であり山法師の父親である長男信忠は本能寺の変で死亡している
この決定に納得がいかなかった三男信孝は 後見人に選ぼうとしてくれていた柴田勝家とともに抵抗するも信雄に自害を迫られ切腹
その後 結果的に羽柴秀吉が実権を握りった事で次男の信雄が実妹徳姫の旦那の親である 徳川家康に助けを求め羽柴秀吉に攻撃を仕掛ける
これが小牧長久手の戦いの始まりである
〖戦いの幕開け〗
最初徳川家康についていた織田信長と乳兄弟であった織田家家臣の池田恒興(つねおき)が突如羽柴秀吉に寝返り犬山城(地図①)を占拠する
この報告を聞いた 徳川家康は織田信長のかつての居城ですでに廃城となっていた小牧山城(地図②)に急いで駆けつけた
〖 羽黒の戦い〗
犬山城を占拠していた池田恒興に森蘭丸の兄で池田恒興の娘と結婚した森長可(ながよし)が合流した
そこで小牧山城へ攻撃をしようとするが反撃にあい敗走
その後羽柴秀吉が楽田城に陣を張り、土塁や砦をを作り守りを固めていった
同じように小牧山城で土塁や砦を作り守りを固めていた織田・徳川軍と膠着状態になってしまう
これを打破するため池田恒興が秀吉に岡崎城(地図③)に攻め込むことを提案する
羽柴秀吉は危険と判断しながらも送り出してしまった😣
〖岩崎城の戦い〗
②森長可3,000人 ③ 堀秀政 3,000人 ④総大将羽柴秀次(秀吉の甥)8000人の順番になっていた
岡崎城の手前岩崎城(地図④)でこの先頭の池田恒興の隊列に気がついたた城の留守を守っていた丹波氏重は反撃に出る
しかし池田軍はこの時7,000人、対して岩崎城の兵は300人だった為わずか3時間足らずで丹羽氏重は討死にし、兵は全滅岩崎城は落城した
この時女子供を逃し、徳川家康に助けを求めた丹羽茂次だけが生き延びた
〖白山林の戦い〗
岩崎城から助けを求めに来た丹羽茂次から話を聞いた徳川家康はすぐさま出発する
このとき徳川軍は 榊原康政・伊井直政・ 岩崎城主の丹羽氏次等
後方部隊の秀吉の甥羽柴秀次に白山林(尾張旭市)で追いつき攻撃にでた(地図⑤)
休息していて秀次軍は壊滅状態に
目付役の木下氏一族が秀次を逃がすため全員討ち死にしてしまう ※ 木下勘解由塚(きのしたかげゆづか)(地図⑥)
〖 桧ヶ根(ひのきがね)の戦い〗
後ろから発砲などが聞こえたため3番目の部隊で秀次の前方にいた堀秀政は 広報で行われている戦に気付く
そこに羽柴秀次敗走の知らせを受けた堀秀政は引き返し桧ヶ根に陣をおき徳川軍を待つ ※ 堀久太郎秀政本陣跡(地図⑦)
ここで秀次を破った徳川軍を迎え撃つことに成功し徳川軍は岩作城(地図⑧)へ逃げていった
だが堀秀政は御旗山(地図⑨)に徳川家康の金扇の馬標(うまじるし)に気がつき撤収した
実は岩崎城の戦の知らせを受け、 徳川家康が教圓寺(地図⑩)で祈願をした後、御旗山と色金山(地図⑪)に本陣を置いていた
このとき徳川家康は床机石(ちず⑫)に腰かけて軍事会議を開いたとされている
〖 長久手の戦い〗
残された先頭の池田恒興の軍隊と2番目の森長可の軍隊はこれらの戦の話を聞きすぐさま長久手に戻って行った
長久手で徳川軍と戦になるが森長可が討ち死にをし それにより戦闘体制が崩れ始めてしまった池田恒興も討ち死にしてしまう
※ 池田恒興の討死場所・・・勝入柄(地図⑬)
池田恒興の嫡男元助が父の死を知り引き返したが討ち死にしてしまう ※ 庄九郎塚(地図⑭)
この戦いで徳川軍が松の木に鎧をかけ 池でやりや刀を洗ったが、池が血で真っ赤になったと言われている(地図⑮)
岩崎城は壊滅となったが結果的に池田恒興達は岡崎城へ行くことできず、またこれを阻止したとして丹羽氏次は徳川家康の絶対的な信頼を得ることとなった
この戦で羽柴軍2500人織田・徳川軍590人が死亡し、その後 安昌寺のおしょうが遺体を埋めて弔ったと言われている ※首塚(地図⑯)
〖戦の結果〗
羽柴秀吉は徳川家康・織田信雄軍には勝てないと判断し織田信雄に絞って攻めていった
その結果戦をする理由がなくなった徳川家康も 羽柴秀吉と和睦することになる
これにより小牧長久手の戦いは終了となる
★ 小牧長久手の戦いに関係する史跡がたくさんあったので頑張ってまとめてみました
教科書には小さく載っているだけでの戦いですがこんなにもすごい戦いだったことにびっくりです