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≪鎌倉時代≫源頼朝(みなもとのよりとも)


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いらすとやより

 

1147年  0歳 尾張の国熱田(現名古屋市熱田区 )の熱田神宮の西側にあった誓願寺(地図赤①)で生まれる

父親は清和天皇の一族源義朝、母親は熱田神宮宮司藤原季範の娘由良御前

龍泉寺の亀井水(地図赤②)も産湯の井とされている

 

幼名は鬼武者または鬼武丸

 

源義朝の三男として生まれたが母親の身分が高かったため嫡男として育った

 

1159年  12歳  二条天皇の蔵人(くろうど)に補任される

※蔵人・・・ 天皇の秘書的立場

父義朝と藤原信頼が起こした平治の乱(地図赤③)にて初陣を飾るも平清盛率いる平氏に敗北

 

父と兄は 死亡し源頼朝も処刑されるところだったが、平清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)が早世した我が子家盛に頼朝が似ていると助命に奔走し、命を助けられ伊豆国蛭が小島(地図赤④)に流刑となりその後20年流人として過ごした

 

※ 頼朝が子どもの頃から慕っていた後白河天皇の姉である上西門院や母方の親戚である熱田大宮司家の働きかけによるものという説もある

 

1177年  31才  監視役であった北条時政の娘北条政子(20歳)と恋に落ち伊豆山神社(地図赤⑤)で愛を育んだ

その後猛反対される中かけおち同然で結婚する

結婚後は北条時政の館(地図赤⑥)に住んでいたとも言われている

 

1180年  33歳 

後白河天皇の第3皇子である似仁王(もちひとおう)より平家打倒の命を受け挙兵を決意するも、石橋山の戦い(地図赤⑦)で大敗したが奇跡的に生き残り真鶴岬(地図赤⑧)から船に乗り安房国(現千葉県)に逃げた(地図赤⑨)

 

安房国に逃げ込んだ源頼朝は上総広常(かずさひろつね)と千葉常胤(ちばつねたね)両者と合流し兵力を手に入れる

その際に兵を整えたと言われる「鷺沼旅館」の場所は謎のままだけれど、習志野市にある鷺沼城ではないかと言われている(地図赤⑩)

 

その後父義朝が本拠地とした鎌倉を自らの本拠地(地図赤⑪)とし、 同じく清和天皇の血を引き武田信玄のご先祖様である武田信義と協力して富士川の戦いに臨むも、武田信義富士川を渡ろうとした時に一斉に飛び立った水鳥の羽音に驚き平氏の軍は一目散に退散した為なにもせず勝利した(地図赤⑫)

 

異母弟の源義経(21歳)と20年ぶりの涙の再開を果たす(地図赤⑬)

 

1185年  38歳  壇ノ浦の戦い(地図赤⑭)で源義経平氏を滅ぼすが不仲となり謀反の疑いで義経を追討する

 

1189年  42歳  奥州藤原氏を頼った義経を討ち自害させ、 奥州藤原氏も滅亡させる(地図赤⑮)

 

1192年 45歳  後鳥羽天皇より初代征夷大将軍に任命され、約150年続く鎌倉幕府を成立させた

鎌倉幕府は後の室町幕府江戸幕府に影響を及ぼしたとされている

征夷大将軍・・・ 軍権に基づく政権担当者

 

朝廷公家中心の政治から武家中心の政治が始まる

武家政治は江戸時代が終わるまでの約700年間続いた

 

1198年  52歳  新しい橋(地図赤⑯)の完成に出席後、帰宅途中に体調不良となる

落馬したという説もある

 

1199年  53歳  死亡  死因は落馬・病死・暗殺等いろいろな説があるが今も不明

 

源頼朝北条政子と結婚する前に、八重姫と結婚し、千鶴丸と言う子どもを設けているが、平清盛の怒りを恐れた八重姫の父親に子供を殺され離縁

( 八重姫との結婚の時期は不明)

 

その後八重姫の父親に命を狙われるようになった頼朝は、伊豆山神社へ向かい逃げる途中で喉の乾きを覚えるも水がなく途方にくれていると太刀のこじりが当たった場所から水が湧きだした(地図赤⑰)と言う伝説が残されている

 

 

八重姫はその後頼朝が北条政子と結ばれた事を知り命を絶ってしまう

 

◆頼朝の実子は皆亡くなっていて直系の子孫はいないとされている

 

◆戦は多かったが実際に前線には出ておらず、主に鎌倉で指揮を取っていた

前線で戦う際には先祖代々の宝刀『ひげきり』(地図赤⑱)で敵を倒していった

 

源頼朝

法華堂(地図黒①)