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【平安時代】西塔武蔵坊弁慶


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イラストやより

 

 

弁慶の誕生には和歌山県田辺市島根県松江市それぞれに説が残っているが、両場所における伝説と両親に関する伝説がかなり入り混じっていて複雑になっている

※生誕の情報についてはたくさんの説がある為下記の情報は確実なものではありません

【Ⅰ】和歌山県田辺市生誕説

1151年3月3日(諸説あり) 0才

父親である第21代熊野別当(注①)「湛増(たんぞう)」が二位大納言(注②)の娘を強奪して、大福院(地図黄①)で妊娠期間33ヵ月だった弁慶を産ませ弁慶産湯の井戸(地図黄②)で汲んだ産湯につかわせたとされている

※『義経記』(注③)では熊野別当「弁せう」が二位大納言の娘に産ませたその妊娠期間は18か月と記されている

子どもの姿で生まれてきた弁慶は鬼子として父親に殺されそうになるが、父親の妹であるおばが「鬼若」と名付け引き取った(山に捨てられたという説もある)

子どものころ八坂神社(地図黄③】にある石に腰を掛けていたが、重みで石にくぼみができてしまう

注①熊野別当・・・9~13世紀に熊野三山(熊野大宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統括に当たった役職

注②二位大納言・・・日本の位階・神階における位のひとつ

注③義経記(ぎけいき)南北朝時代室町時代にかけて完成したと考えられている作者不詳の義経を中心とした軍記物語

 

7才の頃

叔母により京都で育てられた弁慶は比叡山延暦寺(地図黄④)に預けられるも、暴れまくったため追い出される

 

その後自ら剃髪し「武蔵坊弁慶」と改名播磨の書写山園教寺(地図黄⑤)で修業するが、いたずらをされたことに腹を立て相手の修行僧を屋根に投げてしまう

その際に修行僧が持っていた火が燃え広がり54棟が延焼してしまう

 

【Ⅱ】島根県松江市

紀州田那部(現和歌山県田辺市)の誕象(たんしょう)の娘だった弁吉が年ごろになっても良縁に恵まれず、両親の勧めで出雲の国の縁結びの神「出雲路幸神社(地図茶①」へお参りすることになった

そこで枕木山の長海村に住むようお告げがあり、長見神社(地図茶②)で待つこと3年一人の山伏(天狗という説あり)と出会い身ごもった(山伏はすぐに去って行ったらしい・・・)

妊娠中に鉄を好むようになった弁吉は村の鍬(くわ)を盗んで食べていたが村の子供に見つかり食べ残した為、他の説よりは早い妊娠13か月に弁慶の森(地図茶③)で弁慶を産んだとされている

産まれたばかりの弁慶は髪は長く歯も生えそろっているという異様な姿だったため、弁吉は自分の手で井戸を掘り(地図茶④)産湯につかわせた

弁吉は弁慶に「弁太」と名付けた

 

5才の頃

2メートルほどある大きな岩(地図赤⑤)を持ち運ぶ

 

7才の頃

あまりにいたずらが酷いため、母親の弁吉に弁慶島(地図茶⑥)に置き去りにされる

そこで出会った天狗(父親と言う説あり)に剣術や学問を学び、さらに砂や石で道を作って島を脱出する方法を教わる

このときに作った道は今でも利用されている

 

無事島を脱出した弁慶は最後岸辺の茅を握って陸にわたるが、その際に茅で手を切ってしまう

この茅は「弁慶の握り茅(地図茶⑦」として伝えられ、今も『弁太(弁慶)の血で茅の切り口が赤い』と言われている

 

島を脱出した後「弁太」から「鬼若」と改名して華蔵寺(地図茶⑧)で修業を行う

ここで修業中に石を持ち運んでいる(地図茶⑨)

他に澄水寺(地図茶⑩)で修業をしている

 

18才~21才

上記寺で修業した後鰐淵寺(がくえんじ)で3年間修業する

 

出雲で母親とされている弁吉が亡くなる

嘆き悲しんだ弁慶は自分が生まれた弁慶の森(地図茶③)に「弁吉女霊社(じょれいしゃ)」と言う祠を建立し母をまつった

弁吉が出会いを待った長見神社(地図茶②)に自分の半生を記した「武蔵坊弁慶訴状」を奉納する

 

【Ⅲ】義経との出会い以降

播磨山の書写山(地図緑①)で乱暴を繰り返し、堂塔を炎上させた弁慶は京で千本の太刀 (たち)を奪おうと決心

 

999本目まで集めたところで笛を吹きながら五条大橋(地図緑②)を歩く源義経に挑むも降参し家来となり平家との戦で活躍をすることに

 

しかし源義経が兄の源頼朝を怒らせ命を狙われるようになると、ともに陸奥国を目指し逃亡する

その後1189年衣川館(地図緑③)で襲われ、源義経をかばいたくさんの矢をあび死亡※弁慶の立往生

 

その後源義経の首と共に鎌倉の腰越の浜(地図緑④)に運ばれ首実験が行われた後白旗神社(地図緑⑤)に葬られた

 

配偶者はいないと推測されている

 

【Ⅳ】弁慶ゆかりの地(地図赤)

①弁慶産屋の楠跡・・・第三の弁慶出生の地

②闘鶏(とうけい)神社・・・弁慶の産湯の釜・義経の笛・湛増の鉄烏帽子・鉄の扇が残されていて。敷地内には湛増と弁慶の像がある

③弁慶像

島根県松江市新庄町・・・腕利きの刀鍛冶が弁慶の薙刀を作った

⑤弁慶石・・・弁慶が愛した石

⑥弁慶鏡ケ井戸・・・源義経と共に奥州へ向かう途中で喉を潤した

⑦矢の根石・・・弁慶が矢をさした岩

⑧弁慶下駄掛石・・・弁慶が蹴って飛ばした石

⑨弁慶腰掛石・・・この石に座っているときに源義経と出会った※時期は不明

⑩弁慶硯の水井戸・・・大般若経を写したときの井戸

⑪弁慶坂

⑫弁慶橋

⑬弁慶水・・・弁慶が閼伽水(あかみず※仏前に備える水)を汲んだ場所

瀬見温泉・・・源義経の子ども亀若丸の産湯を探していた弁慶が見つけた温泉薬研の湯、亀若丸の誕生を祝い投げた弁慶の投松、亀若丸の名付けの際に硯(すずり)として炭をすった弁慶の硯石がある

 

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《鎌倉時代》源義経

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いらすとやより

 

1159年  0歳  父源義朝の9男として産まれる

母は側室の常盤御前(ときわごぜん)

幼名は牛若丸

常盤御前は常徳寺(地図赤①)で安産を祈願し、光念寺(地図赤②)で腹帯(はらおび)地蔵を寄贈し義経が無事生まれてくることを祈った

 

その後無事 義経が生まれ(地図赤③④)、 松の木の下にへその緒と胎盤を埋めたと言われている(地図赤⑤)

 

1160年  1歳  平治の乱により父の源義朝(38歳)は死亡し、異母兄である源頼朝(14歳)は伊豆に流刑となる

義経は母常磐御前に連れられ今若・乙若の2人の兄と共に大和国※現奈良県  へ逃げた

途中母である常盤御前清水寺の子安の塔を訪れ千手子安観音に無事を祈願したと伝えられている(地図赤⑥)

 

1169年  11歳  鞍馬寺(地図赤⑦)に入り遮那王と名乗る

鬼一法眼社(地図赤⑧)※きいちほうがんしゃ  にて兵法を授けられた

またこの頃弁慶と出会ったと言われている

 

1174年  15歳  鏡の宿(地図赤⑨)※現滋賀県  にて元服し、奥州平泉※現岩手県  へと下った

 

1180年  21歳  源頼朝(33歳)が挙兵したことを聞きつけ駆けつける途中、菩提所のわき水(地図赤⑩)で義経を慕っている浄瑠璃姫へ手紙を書いた

 

黄瀬川の陣で源頼朝と20年ぶりの涙の再開を果たす(地図赤⑪)

 

1184年  25歳  一ノ谷の戦い(地図赤⑫)に勝利

この戦に行く途中で腰をかけて休んだと言われる岩が今も残っている(地図赤⑬)

 

河越重頼の娘郷御前と結婚する

 

1185年 26歳 屋島の戦い(地図赤⑭)で勝利し、その後の壇ノ浦の戦い(地図赤⑮)で平氏を滅ぼす

これにより後白河法皇から褒美を受けるが、源頼朝に無断で受けてしまったため怒りを買う事となり、鎌倉へ戻ることが許されなくなってしまう。

許しを請う手紙いわゆる腰越状を出す(地図赤⑯)もなしのつぶてで、しまいには義経追討の命令が出されてしまい命を狙われる身となってしまう

 

1187年 28歳 幼いころにお世話になった藤原秀衡をたより奥州入りをするも直後に秀衡が病死

 

1189年 30歳 秀衡の子である泰衡の裏切りにあい衣川館で襲われる

このとき弁慶義経をかばい1,000本の矢を受けるも倒れることなく立ち続けたまま死んでいたと言う有名な逸話が残っている

義経は最期抵抗することなく正室の郷御前と子どもを殺害し、その後自害した

 

死後義経の首は鎌倉へ届けられるが泰衡は義経をかばっていたとされ頼朝に殺され奥州藤原一族は滅んでしまう

 

ところが実は義経は生き延びて北海道へ渡っていたという伝説が残っていて、事実北海道には義経にまつわる史跡が多数残されている。

 

またその後モンゴルへ渡りチンギスハンは実は義経であるという噂もあったが、これは近年学術的に否定されている。

 

義経にまつわる伝説は他にもあり、千葉県銚子市犬吠埼の地名の由来が、源頼朝に追われ逃げる途中連れていた愛犬「若丸」を連れていくことが難しくなり、この地で置いていくことになったが、置いていかれた若丸は義経を恋しがり7日間泣き続けた事から犬吠埼と言われるようになったと言われている(地図赤⑱)

※諸説あり

 

【牛若丸奥州への足跡】※地図ちゃいろ

栗原寺

②飯縄寺

義経の腰掛松  ※福島県 国見町

 

義経鎌倉への足跡】※地図むらさき

①住吉玉津津島神社

白河の関

 

義経奥州への逃亡の足跡】※地図きいろ

大物主神

②吉永神社

吉野山  ※奈良県 吉野町

④駒つなぎの桜

四天王寺

⑥摂津國一之宮住吉大社

比叡山

興福寺

⑨鼠が関

⑩気比神社

倶利伽羅峠

義経如意の渡

⑬平泉白山神社

義経

顔振峠(かあぶりとうげ)  ※埼玉県 飯能市

⑯念珠関跡

義経

義経の船隠し

⑲よし竹庵

源義経隠れ塔  ※奈良県吉野町

 

義経北行伝説足跡】※地図グレー

義経神社御神木

②弁慶の刀掛岩

義経

熊野神社

⑤白銀町源氏囲内

⑥館越稲荷社

⑦矢止清水

⑧おがみ神社

⑨三八城神社

⑩厩石

⑪長者山

⑫帯島

⑬小田八幡宮

三厩

兜岩 北海道泊村

 

源義経像】※地図みどり

源義経弁慶像

源義経騎馬像  ※徳島県 小松島市

源義経

 

屋島の戦いへの道のり】※地図水色

①勢合(せいごう)  ※ 四国に上陸した際に他の 義勢と集合した場所

② 釈迦庵(しゃかあん)  ※ 釈迦寺谷にあった庵で義経軍はここを通過している

③ 弦張坂  ※ 峠の向こうに敵がいないか弓を張って登った坂

④弦巻坂(つるまきざか)  ※ 敵がいないことが確認でき弦をはずし巻き取った坂

旗山(はたやま)  ※ 源氏のシンボルである白旗を立てた山 義経騎馬像がある

⑥天馬石(てんまいし)  ※ 源平合戦で活躍した名馬池月が天から舞い降りて石に化けたという伝説の石

⑦弁慶の岩屋  ※横穴式古墳で弁慶ほどの力持ちでなくては作れないであろうということで名付けられた

⑧新見城址(にいみじょうし)  ※ 屋島への道案内をしたという近藤六親家の居城跡

⑨くらかけの岩  ※ 義経が馬の鞍を置いたと言われる巨岩

⑩中王子(なかおうじ)  ※ 熊山城を攻める作戦を練った場所

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≪鎌倉時代≫源頼朝(みなもとのよりとも)


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いらすとやより

 

1147年  0歳 尾張の国熱田(現名古屋市熱田区 )の熱田神宮の西側にあった誓願寺(地図赤①)で生まれる

父親は清和天皇の一族源義朝、母親は熱田神宮宮司藤原季範の娘由良御前

龍泉寺の亀井水(地図赤②)も産湯の井とされている

 

幼名は鬼武者または鬼武丸

 

源義朝の三男として生まれたが母親の身分が高かったため嫡男として育った

 

1159年  12歳  二条天皇の蔵人(くろうど)に補任される

※蔵人・・・ 天皇の秘書的立場

父義朝と藤原信頼が起こした平治の乱(地図赤③)にて初陣を飾るも平清盛率いる平氏に敗北

 

父と兄は 死亡し源頼朝も処刑されるところだったが、平清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)が早世した我が子家盛に頼朝が似ていると助命に奔走し、命を助けられ伊豆国蛭が小島(地図赤④)に流刑となりその後20年流人として過ごした

 

※ 頼朝が子どもの頃から慕っていた後白河天皇の姉である上西門院や母方の親戚である熱田大宮司家の働きかけによるものという説もある

 

1177年  31才  監視役であった北条時政の娘北条政子(20歳)と恋に落ち伊豆山神社(地図赤⑤)で愛を育んだ

その後猛反対される中かけおち同然で結婚する

結婚後は北条時政の館(地図赤⑥)に住んでいたとも言われている

 

1180年  33歳 

後白河天皇の第3皇子である似仁王(もちひとおう)より平家打倒の命を受け挙兵を決意するも、石橋山の戦い(地図赤⑦)で大敗したが奇跡的に生き残り真鶴岬(地図赤⑧)から船に乗り安房国(現千葉県)に逃げた(地図赤⑨)

 

安房国に逃げ込んだ源頼朝は上総広常(かずさひろつね)と千葉常胤(ちばつねたね)両者と合流し兵力を手に入れる

その際に兵を整えたと言われる「鷺沼旅館」の場所は謎のままだけれど、習志野市にある鷺沼城ではないかと言われている(地図赤⑩)

 

その後父義朝が本拠地とした鎌倉を自らの本拠地(地図赤⑪)とし、 同じく清和天皇の血を引き武田信玄のご先祖様である武田信義と協力して富士川の戦いに臨むも、武田信義富士川を渡ろうとした時に一斉に飛び立った水鳥の羽音に驚き平氏の軍は一目散に退散した為なにもせず勝利した(地図赤⑫)

 

異母弟の源義経(21歳)と20年ぶりの涙の再開を果たす(地図赤⑬)

 

1185年  38歳  壇ノ浦の戦い(地図赤⑭)で源義経平氏を滅ぼすが不仲となり謀反の疑いで義経を追討する

 

1189年  42歳  奥州藤原氏を頼った義経を討ち自害させ、 奥州藤原氏も滅亡させる(地図赤⑮)

 

1192年 45歳  後鳥羽天皇より初代征夷大将軍に任命され、約150年続く鎌倉幕府を成立させた

鎌倉幕府は後の室町幕府江戸幕府に影響を及ぼしたとされている

征夷大将軍・・・ 軍権に基づく政権担当者

 

朝廷公家中心の政治から武家中心の政治が始まる

武家政治は江戸時代が終わるまでの約700年間続いた

 

1198年  52歳  新しい橋(地図赤⑯)の完成に出席後、帰宅途中に体調不良となる

落馬したという説もある

 

1199年  53歳  死亡  死因は落馬・病死・暗殺等いろいろな説があるが今も不明

 

源頼朝北条政子と結婚する前に、八重姫と結婚し、千鶴丸と言う子どもを設けているが、平清盛の怒りを恐れた八重姫の父親に子供を殺され離縁

( 八重姫との結婚の時期は不明)

 

その後八重姫の父親に命を狙われるようになった頼朝は、伊豆山神社へ向かい逃げる途中で喉の乾きを覚えるも水がなく途方にくれていると太刀のこじりが当たった場所から水が湧きだした(地図赤⑰)と言う伝説が残されている

 

 

八重姫はその後頼朝が北条政子と結ばれた事を知り命を絶ってしまう

 

◆頼朝の実子は皆亡くなっていて直系の子孫はいないとされている

 

◆戦は多かったが実際に前線には出ておらず、主に鎌倉で指揮を取っていた

前線で戦う際には先祖代々の宝刀『ひげきり』(地図赤⑱)で敵を倒していった

 

源頼朝

法華堂(地図黒①)

≪鎌倉時代≫ 北条政子(ほうじょうまさこ)

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いらすとやより

 

1157年  0歳  伊豆の国の豪族北条時政の長女として生まれる

北条邸(地図赤①)  北条政子産湯井戸(地図赤②)

 

1177年   20歳  伊豆の蛭が島(地図赤③)にに流刑されていて、父時政が監視役を務めていた源頼朝と恋に落ち伊豆山神社(地図赤④)で忍び逢っていた

 

父時政の妻(北条政子の義母)が平家の家臣であることから、山木兼隆と結婚が決まっていたが、婚礼の夜に源頼朝のもとへ逃げ出した

2人は太鼓橋※逢瀬橋(地図赤⑤)で劇的な対面を果たす

平家に遠慮をして反対をしていた父だが 翌年二人の最初の子大姫が生まれると、結婚を認めることに

 

1180年  23歳  鎌倉に移り住む源頼朝が平家討伐のため挙兵すると御台所と呼ばれるようになる

源頼朝が敗戦し安房に逃げるとこの間北条政子走湯山(地図赤⑥)に身を潜め源頼朝の安否を心配していた

その後密かに秋戸郷(地図赤⑦)に身を移す

 

1182年  25歳  2代目将軍となる頼家を出産

源頼朝は安産祈願のため鶴岡八幡宮若宮大路の段葛(だんかずら)を造ったと言われている(地図赤⑧)

 

1185年  28歳  壇ノ浦の戦いで平家が滅ぶ

 

1192年  36歳  源頼朝征夷大将軍に任命される

この歳三代目将軍実朝出産

 

1199年42歳源頼朝が急死するその後出家して 尼御台と呼ばれるようになる

 

1203年  46歳  妻の一族ばかりを重用するなど勝手な政治を行っていた頼家を出家させ、修善寺(地図赤⑨)に閉じ込める

 

1204年 47歳   父北条時政により頼家が殺される

 

1205年  48歳  父北条時政の実朝暗殺計画を知り助け出す

 

1219年  62歳  鶴が岡八幡宮(地図赤⑧)で頼家の子に実朝が暗殺される

実朝暗殺後名ばかりの将軍を藤原家から招き、 父時政や弟義時とともに政治を行うようになり尼将軍と呼ばれるようになる

 

1221年  63歳  朝廷の後鳥羽上皇が義時を討てと命令したことから、朝廷対鎌倉幕府との争いとなる※承久の乱(地図赤⑩)

 

皇室を恐れる武士たちに「頼朝公の恩は山より高く海より深い」と伝え奮起させ京都へ攻めこむ

 

結果鎌倉幕府の勝利となり後鳥羽上皇流罪となる

 

1224年  67歳  弟義時が亡くなると、後妻(継室)である伊賀の方が謀反を企てたとして伊豆に流刑する

この直後伊賀の方は鎌倉に強い恨みを抱き亡くなり怨霊が北条政子の御台に現れ女房たちが驚き死んでいった

この怨霊は北条政子の前にも現れ祈祷をした・・・が

 

1225年  68歳  勝長寿院(地図赤⑪)で闘病していたが死亡

 

北条政子は妊娠するたび浮気をした源頼朝の相手の女の家を壊すなど恐妻家として有名だが 、義経の愛人静御前に男の子が産まれ源頼朝の命で由比ヶ浜に沈められ殺されたときに静御前をたくさんの贈り物等で慰める優しい一面もあった

北条政子頼朝に赤ん坊の助命を願い入れるも頼朝はこれを聞き入れなかった

 

北条政子ゆかりの地

広徳寺  ※源頼朝重臣 美尾屋十郎廣徳をしのび建立(地図赤⑫)

 

乗蓮寺北条政子が化粧のために使った色がある(地図赤⑬)

 

北条政子の墓 

寿福寺 (じゅふくじ) 神奈川県鎌倉市 (地図黒①)

北条政子源頼朝 の菩提を弔うため建立した寺

 

◆安養院 (地図黒③)

 

勝長寿院 

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≪戦国時代≫ 斎藤道三(どうさん)

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いらすとやより

 

1494年 0歳  山城国乙訓郡西岡(現在の京都府)で生まれる

父親は松波庄五郎で母親は不明

1504年  10歳  妙覚寺に出家し法蓮房と名乗る

 

その後還属し油売りの行商人から武士へと出世したと言われているがこれは父松波五郎の事ではないかと言う説もある

 

美濃国守護土岐に使える長井長弘の家臣となり、その後長井氏 家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利と名乗る

 

1527年  33歳  土岐氏家督争いで土岐頼芸の相続に貢献し家老となる

 

1527年33歳 稲葉山城(岐阜城)に本拠をおく

 

1530年  36歳  長井長弘を殺害し長井家を乗っ取り長井新九郎規秀と名乗る

 

1538年  44歳  斎藤利長が病死をすると名を継いで斉藤新九郎利正と名乗る

 

1541年  47才  土岐頼芸の弟頼満を毒殺し土岐頼芸との仲が険悪になる

 

1542年  40歳 土岐頼芸とその子を尾張の国へ追放し道三が美濃の国主となる

 

1547年  53歳  加納口の戦いで織田信秀を撃退するが翌年娘の濃姫織田信秀の嫡男織田信長に嫁がせて和睦にする

 

1554年  60才  家督を嫡男義龍に譲り 仏門に入る

 

1556年  62歳  長良川の戦いで嫡男の義龍に敗れ討死する

 

道三の正室お見の方は明智光秀の 叔母にあたり 織田信長に嫁いだ濃姫明智光秀の従兄弟になる(親同士が兄妹)

 

また娘の春日局は徳川三代目将軍家光の乳母である

 

道三を討ち取った義龍は母である深芳野が側室になった時にはすでにお腹にいて実の父親は斎藤道三によって追放された土岐頼芸ではないかという説がある

 

斎藤道三の娘の一人が稲葉貞通に嫁いでいて、この2人の子孫が120代仁孝天皇を生んでいるので、道三は天皇陛下の直径の祖先となる

 

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≪戦国時代≫今川義元


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1519年  0歳  駿河国(静岡県)で父今川氏親(46歳)・母正室寿桂尼(じゅけいに)の五男として産まれる幼名は菊丸

 

五男なので家督を継ぐ立場になく、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗り善得寺(地図赤①)で修行を行い、その後健仁寺(地図赤②)・妙心寺(地図赤③)等に移り学んでいた

 

1536年  17歳  長兄氏輝(23歳)と次兄彦五郎(年齢不詳)が同日に亡くなってしまう

氏輝は病死と言う説もあるが2人同日に死亡した原因は謎に包まれている

 

異母兄弟の玄広恵探(19歳)(げんこうえたん)と 家督争いをし当主の座を勝ち取る

 

今川家はそれまで北条氏と手を組み甲斐の武田氏と争ってきたが、今川義元武田信虎(42歳)の娘で武田信玄(16歳)の姉になる定恵院(18歳)を妻とし武田家と同盟を結んだ

 

これに怒った北条氏綱(49歳)が駿河国(静岡県)に攻め込んで今川義元から河東を奪い、1545年までの9年間争うこととなる(河東の乱)

 

1545年  26歳  長く続く戦いの中、今川義元は北条氏と敵対する上杉憲政と同盟を結び駿河国(静岡県)を今川家と武田家、関東を上杉憲政という形で挟みうちにした

 

関東の上杉軍が8万もの大群で河越城(埼玉県)を包囲したことにより諦めた北条氏康武田信玄に仲介を頼み、河東を返還するという形で和睦となった(地図赤④)

 

北条家と並行し三河国(愛知県)への侵攻も行っており、同じ三河国を狙う織田家とも戦を繰り返していた

 

1542年  23歳  織田信秀(31歳

)との第一次小豆坂の戦いに敗れる(地図赤⑤)

 

1547年  28歳  岡崎城を居城とする松平広忠(21歳)(徳川家康の父)は織田家の攻撃に耐えかね今川義元に助けを求めるその際竹千代(5歳)※徳川家康を人質に出す約束をする(地図赤⑥)

 

しかし 護送を行っていた戸田康光の裏切りにより竹千代は織田信秀に売り飛ばされてしまった

怒った今川義元戸田康光を滅ぼす

 

1548年  29歳  織田信秀(37歳)と第二小豆坂の戦いで勝利を収めた(地図赤⑤)

 

1549年  30歳  松平広忠(23歳)が暗殺され、竹千代(6歳)を人質に取っている織田家岡崎城(地図赤⑥)を取られる可能性が大きくなった為、織田信広が守る安祥城(地図赤⑦)に攻め込み織田信広(織田信長の異母兄弟)を捉えた

織田信秀により信広と竹千代の人質交換が行われ、岡崎城(地図赤⑥)と安祥城(地図赤⑦)を手中に収めたことから三河を領国とした

 

1550年  31歳  正室の定恵院が亡くなり武田家との婚姻関係が絶たれてしまう

 

1552年  33歳  娘の嶺松院(11歳※推定)を武田信玄の嫡男義信(15歳)に嫁がせることによら再度婚姻関係を結ぶ

 

1553年  34歳  「今川仮名自録追加」を制定し室町幕府との関係を断ち切る

 

1558年  39歳  嫡男の今川氏政(20歳)に家督を譲る

 

1560年  41歳  桶狭間の戦い織田信長(27歳)に敗れ討ち死にする(地図赤⑧)

 

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≪戦国時代≫濃姫(のうひめ)

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清洲城濃姫の像(地図赤①)

 

1535年父斎藤道三・母正室小見の方の唯一の子どもとして美濃国(今の岐阜県)に生まれる

※ 諸説あり正確な年代は不明

 

小見の方は明智光秀の父光綱の妹という説があり明智光秀とはいとこ同士に当たる と言われている

 

正式な名前は分かっていないが美濃国から嫁いだ姫ということで濃姫、または斉藤道三が隠居していた鷺山城から鷺山殿などと呼ばれている(地図赤②)

他には帰蝶と呼ばれていた

 

1546年  11歳  越前大名朝倉孝景斎藤道三の和睦の条件として美濃守護である土岐頼純(ときよりずみ)と結婚させられる

 

このとき織田信長との結婚の話も出ていたが保留となる

 

1547年  12歳  土岐頼純が殺され斎藤家に戻るもすぐに 土岐八郎頼香(ときはちろうよりたか)に嫁がされる

 

土岐八郎頼香が斎藤道三の支配から脱却しようとし斎藤道三に殺される

 

1549年  14歳  大垣城を巡って織田信秀斎藤道三が争っていたが平手政秀の取りまとめが功を奏し織田信長濃姫の結婚にて和睦(地図赤③)

 

織田信長に嫁ぐ際に父斎藤道三より短剣を渡され「織田信長が噂通りのうつけ者ならこれで刺せ」と言われるも「これで父をさすことになるかもしれない」と返したという逸話がある

 

1556年  21歳  父斎藤道三が嫡男の義龍に殺される

※嫡男・・・ 正室が産んだ一番年上の男子ただし 小見の方には息子がいなかったので義龍の母親は側室

 

1582年  47歳 本能寺の変織田信長死亡

 

濃姫の死亡時期には諸説あり1567年織田信長が美濃を攻略する前に病死したという説と、 本能寺の変の時に戦い討死したという説、また1612年本能寺の変より30年目に78歳で亡くなったという説等がある

 

織田信雄分限帳に出てくる安土姫が濃姫ではないかという説が現在最も注目されていて、78歳まで生きたのではないかと言われている

 

織田信長との間に子供はなく不仲だったと言う説がある

斎藤道三の長女で織田信長正室という重要な立場にありながらなぜか謎の多い姫である

 

お墓はないが岐阜城城下町がの西不動尊近くに濃姫遺髪塚が再建されている(地図黒①)

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≪戦国時代≫平手政秀

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政秀寺所蔵

 

 

1492年 0歳 産まれる父は平手経秀

※平手家のルーツ不明

 

織田信秀に仕えていたのは判明しているが、信秀より10歳年上と言うことから父親の信定(織田信長の祖父)から仕えていたのではないかと言う説もある

 

1534年  42歳  織田信長が産まれ、織田家の宿老となる

※宿老(しゅくろう)・・・経験豊かな老人の事

 

志賀城の城主であり、織田信長の傅役(もりやく)でもあった(地図赤①)

※傅役(もりやく)・・・養育係 じいや

 

織田信長の初陣を見守り、濃姫との婚姻を取りまとめるなどやり手であった平手政秀は茶道や和歌にも通じていた

 

1553年  61歳  父親である織田信秀の遺体に抹香を投げるなど様々な奇行を嘆き切腹する

※駿馬をめぐる長男五郎右衛門と織田信長の確執に悩み切腹したという説もある

(織田信長が五郎右衛門の馬を欲しがったが、断られた事を逆恨みした)

 

切腹した平手政秀を弔うため織田信長政秀寺を創建した(地図黒①)

当初は政秀寺に墓がおかれていたが、現在は平和公園(千種区)に移されている(地図黒②)

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≪戦国時代≫織田信秀(のぶひで)

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万松寺所蔵

 

1511年  0歳  父織田信定・母含笑院(がんしょういん)の長男として勝幡城(しょばたじょう)に産まれる(地図赤①)

 

1526年 15歳 父より家督を譲られる

 

1532年  21歳  織田達勝・藤佐衛門と争うが和議

このとき自分の権威を示すため勝幡城に公家を招き連日蹴鞠の会を開催する(地図赤①)

 

1534年 23歳  織田信長が産まれる

 

1535年  24歳  松平清康が暗殺された隙をついて三河を攻める

 

1538年  27歳  今川氏豊(うじとよ)の居城である那古野城を奪い居城とした(地図赤②)

 

1539年  28歳  自ら築上した古渡城(ふるわたりじょう)に居城を移す(地図赤③)

 

1540年  29歳  安祥城を攻略する(地図赤④)

 

1542年  31歳  今川義元(23歳)との第一次小豆坂(あずきざか)の戦いに勝利する(地図赤⑤)

 

1544年  33歳  斎藤道三の居城稲葉山城を攻めるも大敗する(地図⑥)

 

1546年  35歳  織田信長(13歳)に那古野城をゆずる(地図赤②)

 

1547年  36歳  三河松平広忠を攻め岡崎城を攻略し嫡男の竹千代(徳川家康)を人質にする(地図赤⑦)

※嫡男・・・正室の産んだ最も年上の男子

 

1548年  37歳  末森城(すえもりじょう)を築城し居城を移す (地図赤⑧)

今川義元(29歳)との第二次小豆坂(あずきざか)の戦いに敗北する(地図赤⑤)

 

1549年  38歳  押され気味となっていた斎藤道三織田信長濃姫の結婚により 和睦

 

西三河の拠点安祥城を今川義元により陥落される(地図赤④)

人質となった庶子信広と竹千代の人質交換を行う

庶子・・・正室以外が産んだ子ども

 

1552年  41歳  末森城で倒れそのまま死亡 2~3年前から体調が悪くなっていた(地図赤⑧)

 

万松寺で葬儀を行われるがその際織田信長に抹香を投げられる(地図黒①)

 

織田信秀の墓

万松寺から平和公園(千種区)に移されている(地図黒①)(地図黒②)

 

また末森城の跡地にできた城山八幡宮(地図黒③)に霊廟があったが、現在は桃巌寺(地図黒④)で信行(信勝)と共に供養されている

 

居城を変えながら経済基盤を拡大し織田の勢力を伸ばし、一代で織田家を大きくしていった

尾張の虎と呼ばれていた

お酒が好きで早死にの原因になったとも言われているです

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≪神話≫天照大御神(あまてらすおおみかみ)

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いらすとやより

古事記によるとイザナギの禊(みそぎ)により左目から生まれた天照大御神は、八百万の神(やおよろずのかみ)の中で最も位の高い太陽を司る神様である

 

しかし弟のスサノオ高天原(たかまがはら)(地図赤①~②)で乱行を働く等の素行の悪さに怒り天岩戸(地図赤③~⑭)にお隠れになってしまった

 

そのため世界は真っ暗になってしまい困った他の神々は何とか出て来ていただこうと天岩戸の前で楽しそうな音や声を出し大宴会を行うことにしました

 

自分がいないことで困っているはずなのになぜ外は楽しそうなのか❓️と疑問に思った天照大御神に対し他の神が「天照大御神より美しく立派な神がいらっしゃいました」と伝えると、その神様の姿を見ようと岩を少しあけることに

 

その隙間から他の神が「この方です」と天照大御神に鏡を向けると、自分の姿だと気がつかずその姿をもっと良く見ようとさらに岩をあけたところで力自慢の神様が一気に岩の扉をあけることに成功し、世の中に光が戻りました

 

天照大御神天皇家の祖神と言われており、また実は卑弥呼ではないかという説もある

 

現在では伊勢神宮(地図赤⑮)の内宮を代表にあらゆる願いを叶えてくれる所願成就の神様として全国で祀られている

 

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【江戸時代】徳川家康


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いらすとやより

 

 

1542年 0歳 三河の国を治めていた松平広忠の長男として岡崎城で生まれる

幼名は竹千代(地図赤①)

 

1548年 6歳 織田家の人質となり万松寺に匿われていた

 

1550年 8歳 織田家から解放後今川義元の人質となる

 

1555年 13歳  元服して松平元信と名乗る

 

1560年 18歳 桶狭間の戦い今川義元が亡くなり独立  長年にわたる人質生活終了(地図赤②)


1562年 20歳 織田信長と同盟を結ぶ


1566年 24歳 名前を徳川家康と改める

 

1570年 28歳 姉川の戦いに参加。浅井氏・朝倉氏に勝利(地図赤③)

 

1572年 30歳 三方ヶ原の戦い武田信玄に敗北(地図赤④)


1575年 33歳 長篠城を巡って行われた長篠の戦い織田信長と共に武田勝頼を破る(地図赤⑤)


1582年 40歳

本能寺の変にて織田信長死去(地図赤⑥)

 

1584年 42歳 小牧長久手の戦い 豊臣秀吉相手の戦い(地図赤⑦)

 

1586年 44歳  豊臣秀吉の家来になる

 

1590年 48歳  江戸城入城(地図赤⑧)

 

1598年 56才  豊臣秀吉死去

 

1600年 58歳  関ヶ原の戦い石田三成を破る(地図赤⑨)

 

1603年 61歳 江戸幕府を開く

 

1615年 74歳  大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼす(地図赤⑩)

 

1616年 75歳  病気のため死去 死因については天ぷらの食べ過ぎ、胃がん関ヶ原の戦いで実はすでに死んでいたというさまざまな説がある

 

徳川家康の墓

 

【栃木県】

日光東照宮(地図黒①)

 

静岡県

久能山東照宮(地図黒②)

 

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≪弥生時代≫卑弥呼


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いらすとやより

 

出生は不明

 

189年前後  卑弥呼が現れる

 

232年  新羅に侵入するも抵抗されたくさんの兵士が死亡する

 

238年頃  直属の家来を魏に派遣し、皇帝から金印と銅鏡100枚を授かる

 

247年 魏に狗奴国との戦いを報告する

 

248年頃  卑弥呼死去 死因・年齢は不明

 

分かっていること

  • 邪馬台国に居住していた
  • 鬼道と呼ばれる占いを行っていた
  • 夫はいない弟が国家統治の助けをしていたいを行っていた

 

邪馬台国の場所は未だ不明で朝鮮半島から東に1200里ほど の場所にあったらしい

 

吉野ヶ里遺跡(地図赤①)がある北九州説と纏向遺跡(地図赤②)がある近畿説が有力である

 

稲作が伝わった後小さな村がいくつもでき、土地を巡っての戦いが続いていた

そんな長年の争いを終わらせ、占いを使いってに治めたのが邪馬台国卑弥呼

人前に現れることはなく、占いの結果は弟が伝えていた。

 

また卑弥呼天照大神という説があり天皇家の先祖ではないかとも言われている

 

墓は箸墓古墳ではないかと言われている

 

近年大和墳群の一つ黒塚古墳より卑弥呼の鏡ではないかと思われる鏡がたくさん出土されている(地図赤④)

 

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≪戦国時代≫豊臣(羽柴)秀吉


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いらすとやより

 

1537年 0歳 現在の名古屋市中村区で生まれる※諸説あり(地図赤①)

 

 

1543年 6歳光明寺に預けられる(地図赤②)

 

1551年 14歳 元服

 

1554年 17歳 織田信長に仕える

 

1560年 23歳 桶狭間の戦いに参戦(地図赤③)

 

1561年 24歳 おね(寧々)と恋愛結婚


1566年 29歳 墨俣一夜城築城(地図赤④)


1570年 33歳

金ケ崎の戦い(地図赤⑤)

姉川の戦いに参加。浅井氏・朝倉氏に勝利(地図赤⑥)


1573年 36歳

浅井長政との戦いで手柄を取り 、織田信長から 人生初めての居城となる 長浜城を与えられる。( 地図赤⑦)

木下藤吉郎から羽柴秀吉と名前を改める。


1578年 41歳 三木城の合戦で兵糧攻めを行い播磨の別所長治を滅ぼす(地図⑧)


1580年 43歳 姫路城に本拠を移す(地図赤⑨)


1581年 44歳 鳥取城の戦い 兵糧攻め吉川経家 を滅ぼす。(地図赤⑩)


1582年 45歳

備中高松城の戦い 水責めで清水宗治を滅ぼす(地図赤⑪)

本能寺の変にて織田信長死去

山崎の戦い 羽柴秀吉明智光秀の戦い その後明智光秀は 逃亡中 槍で突かれこの世を去る(地図赤⑫)


1583年 46歳

・賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い で柴田勝家を破る(地図赤⑬)

大坂城の築城開始(地図赤⑭)

 

1584年 小牧長久手の戦い(地図赤⑮)

 

1585年 48歳  関白に任命

 

1586年 49歳  名前を 羽柴秀吉から豊臣秀吉に改める

 

1587年 50才  キリスト教を禁止する

 

1588年 51歳 刀狩令を出す

 

1590年 53歳  天下統一を実現

 

1592年 55歳 朝鮮出兵 するもあまりうまくいかず

 

1597年 60歳  再度朝鮮出兵を行う

 

1598年 61歳  伏見城で 死亡※梅毒 大腸がん毒殺など 諸説あり(地図赤⑯)

 

 

豊臣秀吉の墓

京都府

豊国廟(ほうこくびょう)

 

和歌山県

金剛峯寺 高野山(地図黒⑯)

 

広島県

安国寺※遺髪の墓と呼ばれている

 

山口県

俊龍寺(しゅんりゅうじ)

 

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≪戦国時代≫織田信長

 


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1534年 0歳  父織田信秀(23歳)・母土田御前の嫡男として那古野城で生まれる(地図赤①)

※嫡男・・・正室が産んだ一番年上の男子

1546年 13歳 古渡城元服(地図赤②)

1549年 16歳 斎藤道三(54歳)の娘濃姫(15歳)と結婚

1551年 18歳 父親の織田信秀が亡くなった際に、葬儀が行われていた万松寺で抹香を投げつける(地図赤③)

 

1553年 20歳 父親の織田信秀の代から仕えていた平手正秀(61歳)が、信長の無礼の責任をとり自害(諸説あり)する。その後信長は弔うため政秀寺を創建する。(地図赤④)

1555年 22歳 清洲城に住まいを移す(地図⑤)


1560年 27歳 熱田神社にて必勝祈願をした後、桶狭間の戦い今川義元に勝利(地図赤⑥⑦)


1562年 29歳 清洲城にて徳川家康と同盟を結ぶ(地図赤⑤)


1563年 30歳 美濃統一を目指し初めて築いた小牧山城に住まいを移す(地図赤⑧)


1567年 34歳 稲葉山城の合戦で斎藤軍に勝利。その後稲葉山城に住まいを移し、岐阜城と改めた。(地図赤⑨)


1570年 37歳 姉川の戦いで浅井氏・朝倉氏に勝利(地図赤⑩)


1571年 38歳 比叡山延暦寺を焼く(地図赤⑪)


1573年 40歳

7月 牧島城の戦いにて室町幕府を滅ぼす※足利義昭を京都から追放(地図赤⑫)

8月13日 刀根坂の戦い(地図赤⑬)

       20日一乗谷の戦い(地図⑭)

       28日小谷城の戦い(地図赤⑮)


1575年 42歳 長篠の戦いで武田氏に勝利(地図赤⑯)


1576年 43歳 安土城を築く(地図赤⑰)


1582年 49歳 本能寺の変 明智光秀の裏切りにより自害(地図赤⑱)

【その他】

岐阜公園(地図赤⑲)  かつて信長が居住していた

桶狭間の戦いの前に祈願した熱田神宮(地図赤⑳)に勝利のお礼として奉納された信長塀が現存している

 

織田信長の墓★

※遺体が見つからなかった為複数か所に墓がある

京都府

阿弥陀寺 (地図黒①)   建勲神社(地図黒②)   今宮神社(地図黒③)

総見院(地図黒④)   大雲院(地図黒⑤)   本能寺(地図黒⑥)

妙心寺玉鳳院(地図黒⑦)   建仁寺(地図黒⑧)   聖隣寺(地図黒⑨)

滋賀県

西光寺(地図黒⑩)   摠見寺(地図黒⑪)

 

【愛知県】

長興寺(地図黒⑫)   総見寺(地図黒⑬)

総見院本能寺の変で焼けたかぶとが保管されている(地図黒⑭)

 

大阪府

南宗寺(地図黒⑮)

 

和歌山県

金剛峯寺 高野山(地図黒⑯)

 

富山県

瑞龍寺(地図黒⑰)

 

静岡県

西山本門寺【地図黒⑱】

 

熊本県

泰巌寺(地図黒⑲)

 

山形県

三宝寺(地図黒⑳)

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◆神話◆

アマテラス   スサノオ   イザナギイザナミ  日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

海幸彦・山幸彦

 

弥生時代

卑弥呼

 

古墳時代

 

飛鳥時代

蘇我馬子  聖徳太子   推古天皇   小野妹子

蘇我入鹿   中大兄皇子   天武天皇(大海人皇子)

中臣鎌足   持統天皇  文武天皇   元明天皇

 

奈良時代

聖武天皇   

 

平安時代

桓武天皇   空海   平将門   清少納言

紫式部   藤原道長   平清盛

 

鎌倉時代

源頼朝   北条政子  源義経   静御前  弁慶

後鳥羽上皇  後白河天皇  源義朝

 

室町時代

足利尊氏

 

◆戦国武将  安土桃山時代

織田信長   豊臣秀吉     お市   織田信秀   濃姫   チャチャ   浅井長政   今川義元   平手政秀

石田三成   武田信玄   上杉謙信   明智光秀

伊達政宗  毛利元就    直江兼続    斎藤道三

島津義弘   前田利家

 

◆江戸時代◆

徳川家康   伊達政宗   徳川家光    徳川光圀

徳川綱吉   伊能忠敬   井伊直弼   吉田松陰

坂本龍馬   西郷隆盛   徳川慶喜   春日局